さなんさのブログ

平日は引きこもり生活をしています。

努力する才能など ない!

こんばんは。昨日誕生日を迎えました、いわゆる「努力できない」人間です。拙い文章をお許しください。

 

私は今日も、夜になるとぱっと憂鬱になり、昼間は一日中考えていた、パソコンゲームのことが一気に吹っ飛んで、人生の苦しさについて考えることになる。

 

私は15歳の時に、普通の日本人の「人生のレール」をぶち切った。「1年のニート生活の後、通信制高校に4年在籍、卒業後は自分にできそうな短時間労働を少しだけやる」、というのが私が考えついた人生の新しいレールなのだ。

 

しかし、思うところは勿論ある。私が高校に進学せず、引きこもりを選んだ時には、世間からの疎外感と孤独感、そして、普通の人間から蔑視されているという恐怖と憎悪(危険人物?)によって、電車の中で泣いてしまった。

 

今ではそこまで激情にはしることはないのだが、孤独感や疎外感は今でも、影のように必ず付きまとってくる。

 

そんなとき、スマートフォンを取り出し、ネットに書き込んでいる同じような人間を探す。私の悪い癖だ。「努力できない人」と検索すれば、出てくる出てくる。「努力は才能があってできるもので、才能のない自分は努力できないんだ。」というのが。

 

私にも、そう思っていた時があった。いくら時間が経っても、努力できない人間は、一生できないって。でも時間がたつにつれ、そう思えなくなってきた。

 

才能っていいかのは、その人だけにある特別なもの、ってことですよね。でも、世の中見渡したら、みんな自分のため、将来のため、または家族のために、息を吐くように努力してる。特別じゃない才能なんて、才能とは呼べないと、私は思ってしまうようになった。

 

強いて言葉にするなら、努力する才能がないんじゃなくて、今のところ、努力する資質がないんだろう。自分も含めて。「才能がない」よりも、よっぽど悪いですね(笑)

 

他のサイトを回ってみると、今度は成功者の体験談のようなものが出てくる。チラリと見たそのブログには、「努力は、努力しなければならない環境に身を置かなければ、自発的にすることはできない」と書いてあった。まさにその通りだ。

 

私は確かに、一般人よりグレードの低い努力をして生きている。でも、何度か病気にもなったし、苦しいことや悲しいこともある。今でも苦しい。

 

でも、一般的な生活をしている人から見ればラクに見えるだろうし、自分も「いざ一般人と同じ生活をすれば、もっと苦しいだろう」と考えると、なかなか一歩なんて踏み出せるものじゃない。

 

私はあと1年で通信制高校を卒業するが、短時間のバイトでも、社会に出て働くのが恐ろしい。怖くて怖くてたまらない。1年前は、暇な時間は早く過ぎ去ってくれと思うばかりだが、今は時間がもっとゆっくりになってほしいと身勝手に思っている。

 

やはり、私は臆病だから、切羽詰まらないと社会に飛び込む勇気なんて持てないと思う。でも、その時が来るのが怖くて、死にたい、生きていたくないと思ったとしても、人は生きることから逃れられない。落ち込んでも腹は減るし、眠くもなる。

 

だから、とりあえず生きて、いつか勇気が少しでも出たら、その時に新しいことに挑戦しようと思う。これは私の才能のせいではなく、ただ、まだ時期が早いだけなのだ。誰に恥じることもない。これが私の選択なのだから。